自由でも余裕でも虚しいわ?

ひとりはさびしいなぁ、とおもうこともあるが、

いっしょにいる誰かをうとましくおもうよりは

ずっとしあわせだとおもいなおす。


それに、ひとりじゃないし。

依存する相手がいないことをひとりと呼ぶのだったら

ひとり大歓迎よ。依存は嫌い。


。。。


けっきょく満ち足りているんじゃないか?

改・ことしのもくひょう

若干暗くてすんません



悩まないこと。
人にいういわない以前に悩む行為自体嫌になった。特に自分自身が原因のことは。



劣等感を捨てること。難しいけれどこれはもうなにがなんでも捨てる。
今年度お世話になった人たちに面目が立たないという意味でも。


過去は燃やして捨てること。
冷凍保存だといつ停電して解凍されてしまうかわかりまてん。



そのへんクリアしてけばちょっと突破できる気がする。
昨日、ほんのちょっと余裕ができて、一日ぼんやり考えたこと。
あ、別に塞いでるわけじゃないです。これも備忘録です。



あ、あと、月並みだけど、優しくなりたい。




ミスチルばかり聴いています。この世界〜はぁ〜薔薇色〜ぉ〜



 しもきたいってーおちゃしてーびればんよってーふくとかざっかみてー
 みたいな休日がしたくて氏にそうだw2駅先は薔薇色。

あ〜あ〜

今までで一番クリスマスが嫌いかもしれない、今年。


さびしいからじゃなくて、クリスマスに翻弄される周囲が痛々しくて嫌になってしまう。

よく考えたら去年も24日は一人で部屋で本読んでた。だから翻弄されてる世間とは無縁だったんだな。

天の邪鬼なのだ。だからイルミネーションも見逃している。


一度くらい見に行ってもいいかも。そして行くかも。

諸事情絡んで図らずも、今年もきちんと24日は外しそうだけれどw


部屋片付かないよー





でもまあ、本当のところはそういう感性の違いを越えて

日頃お世話になってる人たちに居場所を提供できたらいいなとか

思っているのですが。気持ちよく過ごせるならばだけれど。

散らかってるのは見ないようにしてピザパーティーとかどうだろう。予約ないと厳しいかな。



本質と関係ないことに振り回されるのがやや不満なだけ。。。

ひさしぶりに書くことが

mixiをいちど「交流の場」としてしまうと書けないことが沢山出てくる。

前の記事なんかもそうで、戦争の話とか、他人と共有してこそ意味が

あるような話もなかなか書けたもんじゃない。

ましてや日々の所感など。。。




今年を振り返る。

前半は色々と歪んでいたと思う。特に春。

一人の人とうまくいかなくなったからと言って

なぜ、人間不信にまでなっていたのだろう。

人間同士の関わりなんて所詮我田引水だと思っていた。

そう考えた方が生物学的につじつまが合う、というのもある。

自分自身のことをひどく即物的に捉えてしまうのは

バイオロジーをやっている上での負の副産物だと最近思う。

そして、そういう考え方こそが正しいと思い込んでしまうのが、

バイオロジー人間としかつるまないことの最大の負の副産物。

人間なんて何よ、所詮遺伝子の乗り物なんだから

感傷なんか抜きにして欲望のまま生きればいいわ!みたいな。極端に言うとね。



それから半年くらい経って、人間不信をやめて、

うまくいかなくなった人間関係だけを軌道修正した。

ら、ずいぶん楽になったし頭の中も健全になった気がしている。

科学的切り口だけが”人”について考えるときの方法ではないと思う。

科学至上主義だったパートナーの中に優しさを見いだせず

(それは単に相手が悪いというよりは関係のこじれによる

ところも大きいとは思うが)に別れ、

今研究室の上司や先輩や友人たちのさりげない温かさのおかげで

毎日楽しく過ごしていると、いかに自分の視野が狭かったかを思い知らされる。

その人たちもバイオロジー人間なのだけど、たぶん

バイオロジー人間とばかりつるんでるわけじゃないバイオロジー人間なので、

ちゃんと”ひと”として立ってる、ような感じがする。

何かをお裾分けしてもらっているような気になる。



ひとが関わっていく上で、

うちらは親友だよ、恋人だよ、との口約束その他儀式形式は全然大切じゃなくて、

日常なんとなくつみあがっていく空気みたいなのが一番決定的なんだなぁ。

うまく言えないけど。時間てすごいと思う。

中学/高校でそういう時間を共有してきた親友とは

半年合わなくても電話一本でそこに戻れたりするし。

一体そういうのを科学でどう説明するんですか。てか

する必要もないんじゃないでしょうか。


来年から脳科学をかじろうと思っている。できれば記憶の形成をやりたい。

でもだからといって、心、とか、そのへんをないがしろにするような、

科学の解法にあてはめてそれ自体を素直に感じることが

できなくなるような、そういう冷たい科学者には

なりたくないのです。今の気持ち。

mixiには重過ぎたので。



昨夜、新しい数字を知りました。筑紫哲也さん特別アンコール番組で

広島の原爆は避けられなかったのか、って内容だったのですが、




爆発直後の爆心地の温度;摂氏100万度だって。1,000,000℃って。



耳を疑ったけど聞き違えではないと思う(私聞き違え半端ないけど…)



リトルボーイを開発し、兵士と共に投下に赴き、自らキノコ雲の写真を撮った科学者と、原爆被害者の方二人の対談っていうのもあった。被害者側が望んだらしい。

企画としてシビア過ぎるだろ…と思ったけど科学者は最後まで謝らなかったね。

パールハーバーを忘れるな!って俺たちは言ってたんだ、と。

被害者の方々は憤る前にまず、唖然としたんじゃないかな。

ここまで全面的に”お前謝れよ”空気満々の中でああまでなれるのは
逆にすごいと思う。でもそうやって自己肯定しなきゃ、とてもじゃないけど彼は生きてこれなかっただろうな、とも。

戦争についてはともかく、
謝ったら負け的な米国文化と、どうしようもない事実に対面した時の
人間の対応についてちょっと考えた。彼のリアクションも、自己防衛システムなんじゃないかと。