ひさしぶりに書くことが

mixiをいちど「交流の場」としてしまうと書けないことが沢山出てくる。

前の記事なんかもそうで、戦争の話とか、他人と共有してこそ意味が

あるような話もなかなか書けたもんじゃない。

ましてや日々の所感など。。。




今年を振り返る。

前半は色々と歪んでいたと思う。特に春。

一人の人とうまくいかなくなったからと言って

なぜ、人間不信にまでなっていたのだろう。

人間同士の関わりなんて所詮我田引水だと思っていた。

そう考えた方が生物学的につじつまが合う、というのもある。

自分自身のことをひどく即物的に捉えてしまうのは

バイオロジーをやっている上での負の副産物だと最近思う。

そして、そういう考え方こそが正しいと思い込んでしまうのが、

バイオロジー人間としかつるまないことの最大の負の副産物。

人間なんて何よ、所詮遺伝子の乗り物なんだから

感傷なんか抜きにして欲望のまま生きればいいわ!みたいな。極端に言うとね。



それから半年くらい経って、人間不信をやめて、

うまくいかなくなった人間関係だけを軌道修正した。

ら、ずいぶん楽になったし頭の中も健全になった気がしている。

科学的切り口だけが”人”について考えるときの方法ではないと思う。

科学至上主義だったパートナーの中に優しさを見いだせず

(それは単に相手が悪いというよりは関係のこじれによる

ところも大きいとは思うが)に別れ、

今研究室の上司や先輩や友人たちのさりげない温かさのおかげで

毎日楽しく過ごしていると、いかに自分の視野が狭かったかを思い知らされる。

その人たちもバイオロジー人間なのだけど、たぶん

バイオロジー人間とばかりつるんでるわけじゃないバイオロジー人間なので、

ちゃんと”ひと”として立ってる、ような感じがする。

何かをお裾分けしてもらっているような気になる。



ひとが関わっていく上で、

うちらは親友だよ、恋人だよ、との口約束その他儀式形式は全然大切じゃなくて、

日常なんとなくつみあがっていく空気みたいなのが一番決定的なんだなぁ。

うまく言えないけど。時間てすごいと思う。

中学/高校でそういう時間を共有してきた親友とは

半年合わなくても電話一本でそこに戻れたりするし。

一体そういうのを科学でどう説明するんですか。てか

する必要もないんじゃないでしょうか。


来年から脳科学をかじろうと思っている。できれば記憶の形成をやりたい。

でもだからといって、心、とか、そのへんをないがしろにするような、

科学の解法にあてはめてそれ自体を素直に感じることが

できなくなるような、そういう冷たい科学者には

なりたくないのです。今の気持ち。